医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

Production著作/論文

コラムコラム-“病気”や“医療過誤”についての連載。

1月15日 "病気"を考える 1 悪いイメージの払拭を

 この連載を始めて二年以上が経過した。
健康を考えることは、病気を知ることでもある。しかし、中には病気やがんについて語ることを、「辛気臭い(しんきくさい)」と思っている人が結構あるのを知った。
「辛気くさい」、これはある意味、私にとって強烈な印象であった。
私たち医療従事者にしてみれば、病気や健康について学び、研究しつつ取り組んでいくことは仕事であり、仕事というからには時にそれは生活そのものでもある。
しかし、病気というのは100%「悪いこと」「いけないこと」であり、そういった内容の記事を読むのも話を聞くのも嫌だ、と述べる人がいるという事実を知ったのは、むしろ新鮮でもあった。
経験上わかるのであるが、そういう人々も、もし自分や家族が病気を抱えてしまったら、本屋に走って医学書を読んだり、インターネットで専門書をあさったりする。
それまでまったく無関心でいられた分野に対し、御さえがたい関心で息苦しいほどになる。要するに慌てふためくわけである。このような場合は、自分が病気であることに対し罪悪感を覚えるかもしれない。
因果応報だと決め付け、遠い祖先にその原因を押し付けようとするかもしれない。
現に、そのような時代があった。病気を知ることは、さらに病気になることは、悪いことでも何でもない。辛気臭いことでもない。それ南夫になぜそのように考える人が存在するのか。なぜ目をそむけようとするのだろう。
それはちょうど、家で亡くなる人が減ったために、「死体」というものを見たこともない子供達が増えている事実と無関係ではないと思う。先頭に行く人が激減したことで、老化に伴う人間の身体の変化を目の当たりにする機会がなくなったことと通じるものがあるのかもしれない。
または、科学の発達があまりに目覚しいので、人は皆死ぬのだという当たり前の摂理をすっかり忘れてしまった気もする。日本全体が極端に平和なために、この平和と長寿は永遠だと思い込んでいるのかもしれない。
おそらくいずれも当たっている。それえも病気に関しては、少しずつ市民権を得られてきたようである。
「がん」と口にすることをためらっていた時代は去り、その経験談を堂々と語る人が珍しくなくなったのがその表れでもある。それだけがんがありふれた病気になったからだろう。
でも、「介護・福祉」はまだこれからだ。ある団体が、介護についての市民参加型のイベントを企画したが、思いのほか場所選びに苦労した。人がたくさん集まる会場が欲しかったが、そういうところではほとんど断られたのである。
やはり「辛気臭い」「ふさわしくない」というのが理由だった。
しかし、それも近いうちに解消されるだろう。高齢者がどっと増え、介護や痴呆は「ありふれた」ものになる。
黙っていてもそういう時代は必ずやってくるのだから。

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