医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

8月2日~8月9日掲載
亀よりノロイ歩み

 以前にも触れた、救急救命士の話。医師法により、現時点で救急救命士は気管内挿管ができないことになっているが、一部地域で必要に迫られ実施されていた現実を受け、厚生労働省が検討を重ねてきた。例によって研究班をつくり、論文の見直し、救急救命士による気管内挿管の安全性や救命率などを論じてきた。いわゆる「有識者会議」同様、研究班なんて悠長なことでいいわけ?とそのときも思った。で、そこそこ結論みたいなものが出てきたのだが、これがまったく「研究」の域を出ていないのにあきれた。

 結論としては、「救急救命士による気管内挿管が救命率の向上に寄与していない」ということ。つまり従来どおり救急救命士は挿管をしてはいけないってことらしい。では、医師による気管内挿管がどれくらい患者の蘇生に貢献しているか調べているかといえば、そういう調査はないに等しい。病院内で行われている気管内挿管が、適正なケースに対して行われ、医師のその手技がどれくらいの精度なのかをきちんと検討し比較しなければ、救命士のそれを「研究」することは不可能だし、第一失礼ではないか?特に死亡前後のターミナルケアの際には、挿管をはじめとした蘇生医療が病院の大きな収入源となっている事実、だからやっても意味がない患者にも挿管を行っているという現実、時にはすでに死んでいるのに若い医者の練習用として挿管を指導する医師…こういう現実はまったく別の話題として棚にあげておくのはおかしい気がする。少なくとも救命士らは、「必要があって」「救命の可能性を求めて」挿管という行為に着手している点だけでも、その志からして違うというもの。

 韓国では、すでに救命士による気管内挿管が認められている。韓国の医師は、「現場に真っ先に駆けつける救命士が、医師の指示のもとに挿管をするのは当然」とコメントし、救命士の活躍をきちんと評価していた。うらやましい限りだ。日本でも、今後も引き続き前向きに検討していくと一応言っているらしいが、いくらなんでも歩みが遅すぎる。また先日のニュースでは、看護師に静脈注射を認める方向、との報道があった。静脈注射(俗にいう血管注射)は、昭和23年の医師法以来、医師でないとおこなってはいけないことになっている行為のひとつ。でもそんな原則が守られているのは大学病院くらいで、ほとんどの病院では看護師が静脈注射を行っている。ずっと前からそうだ。私はこのニュースを見て驚いた。まだそんなことで揉めていたの?と。往々にして、法律は現実の後追いというが、相変わらずひどいことをやっている。これでは亀にも笑われる。亀どころか完全に止まっているのが、「ホームヘルパーの医療行為」だ。これも前に触れたが、家族にも許されている喀痰除去(痰の吸引)でも医療行為とみなされ、ヘルパーにとって行ってはならない行為のひとつになっている。NHKが介護保険の特集を組んだときにもこのテーマがあがっていたが、せっかく核心に触れた取り上げ方だったのに、コメンテーターのどこかの大学教授が「在宅介護を増やすことが解決の糸口」と発言し、何とも的はずれな内容だった。

 わざわざ介護保険を使ってヘルパーに来てもらっても、喀痰除去ができないために、家族が夜眠れない状況は変わらない。これでは何のためのヘルパーかわからないのに、厚労省役人のコメントもまるで他人事であった。現場は学校のお勉強とは違うのですよ。ちなみにヘルパーに認められない医療行為とは、痰の吸引はもちろんのこと、「酸素吸入」「血圧測定」「坐薬」「爪きり」「軟膏塗布」「点眼(目薬)」などなどである。医療行為というより、元気だったら自分でできる、でも体が不自由なのでちょっとお手伝いをして欲しい、といった類のことばかりだが、いかんせん現行では医師の指示がないとできないことになっている。でもこれ、必要に迫られ違反行為と知りつつ行っているヘルパーがたくさんいることも事実。皆後ろめたい気持ちでいっぱいのはず。何でも手中に入れて、医師の権限や采配を譲りたくない魂胆なのだろうか?医師は万能ではない。それぞれ互いの専門性を尊重し目の前の患者をサポートしていくのが基本であり理想であるが、そうでないところに矛盾や不満が起き、しかも変化の遅いこと。何人が犠牲になればいいのだろうか。医学の父、ヒポクラテスはこう述べた。「医術はアートである。しかし医術の発達が遅いのは、他のアート(絵画、彫刻など)のように評論家をきちんと育ててこなかったせいだ」と。紀元前の話であるが、今もちっとも変わっていないことに改めて驚かされる次第である。

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