医学博士・医学ジャーナリスト
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植田 美津恵
日本の医療・福祉・健康を考える

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コラム「一刀両断」コラム「一刀両断」の連載。

2005年1月6日~2月1日掲載
医師への謝礼、何故悪いのか

 1月29日の読売新聞に、「医師への謝礼、患者に重く」のタイトルで、患者やその家族が医師らに手渡す謝礼の総額が年間3300億円以上にのぼる、との記事が紹介された。総額はあくまで推計であるが、記事によればそれが年間医療費の1%を超える金額であること、調査の結果過半数が入院時に謝礼を手渡すことなどが浮き彫りにされた、とある。基のデータは、NPO法人「ささえあい医療人権センターCOML」の、会員を対象にして行ったアンケートで得られた159人の回答内容である。最も多い謝礼金額は3万円で、その対象は「主治医」がトップであり、以下看護師、執刀医と続いている。医師らへの謝礼の話は、古くて新しい話題である。また、それはどちらかというと「悪い行為」として位置づけられている。推計数字を打ち出した川渕孝一氏のコメントにも「謝礼はヤミの診療報酬」とあるように、あってはならぬものととらえるのが一般的であるようだ。入院した経験のない人にとっては、人ごとのようなテーマだが、いざ自分や家族が入院すると、謝礼について一度は考え、迷うものである。

 なぜ医師への謝礼が悪いとされるのか―。医療行為には診療報酬という公的価格があるのだから、謝礼は余計なことだと考える人もある。が、最も大きな理由は、お金をもらうことによって医師の患者に対する治療や態度に変化を及ぼし、結果として「平等な医療」が受けられない事態を招くのではないかという危惧が働くからだろう。医療は平等でなくてはならない―。これは、混合診療や株式会社の病院経営参入を論ずる際にも常に耳にする論調である。その底には、「人の命は平等である」という絶対的理念が存在している。誰の命も平等であると言い切ってしまっていかどうかもやや疑問のあるところだが、たとえそう認めたとしても、だから「医療は平等である」ことにはならない。医療とは不平等に満ちているのだ。これといった原因が考えられないのに、人はある日突然病気になる。同じ年代、似たような生活を送っていても病気になる人とならない人があるのは、なんと不平等なことだろう。また、選ぶ病院や医師によってその後の治療や快適さ、治癒率などにも差が出てくる。評判がよく、よかれと思って選んだ病院・医師であっても、治療方法がその人にだけ合わないこともおおいにあり得る。人の命が尊いことに異存はないが、医療行為やそれによってもたらされる結果は決して平等ではないのは事実である。だからこそ人は、何とか自分だけは助けて欲しいと願うのだ。極端な話、隣のベッドに入院している見知らぬ人の命よりも、自分の命を最優先して欲しいと考えるのが極く普通である。それがどんなに自分勝手な願いだとしても、非難することは誰にもできない感情だと思う。医師への謝礼もその延長線上にあるに過ぎない。日本独特の表現である、「心づけ」とか「袖の下」と呼ばれることもあるが、謝礼とは、何とかして病気を治したいという患者やその家族の真摯な気持ちのひとつの「形」でもある。なかには、謝礼を病院から求められたとの回答もあったが、必要がないと判断すれば払うべきではないだろうし、結果として期待どおりの状況が得られたのならそれで良し、それだけの話である。謝礼をしてもしなくてもその「効果がなかった」として、謝礼を支払った半数以上が「今後は渡さない」と回答している。では残り半数は、「効果があった」と考えているのだろうか。謝礼によって病院側の態度が違ったと感じたのだろうか?それとも効果の有無にかかわらず「そういうもの」として謝礼を捕らえているのだろうか?

 「病気を治して欲しい」、「お世話になります」、「ありがとうございます」、「ちゃんと診てください」…、人は様々な思いを抱いて気持ちをお金に託している。推計総額は莫大だが、ひとりひとりに換算すれば平均で4万ちょっとに過ぎない。1000万も積まれれば、医者も人間、治療への熱心さに差が出てくるかもしれないが、一方でそういう医者の存在を責めることもまたできないのである。謝礼はあくまで個人的な問題だと思うが、それを推計総額としてシミュレーションし、過度な正義的立場に立って、あたかも国家的悪としてとらえ問題視する傾向はどうかと思うのだ。

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